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ピンクの雲

【第1話】Offenbarung Yoha Nebel - オッフェンバールング・ヨハ・ネーベル -

  • 執筆者の写真: 灯甲妃利(Hiri Toukou)
    灯甲妃利(Hiri Toukou)
  • 10月10日
  • 読了時間: 10分

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プロローグはこちらから。



 普通の女性ならすぐに音を上げてしまう険しい道のりだろう。けれども彼女、ヨハは口元に笑みをたたえていた。


 研究所を出てから歩き続けているにもかかわらず、息は上がっていない。余裕に満ちたその様子は、泥や木くずで汚れてしまった高価なワンピースとは対照的だった。


 夜明けの霧が舞って、視界は悪い。ヨハは肌で湿気を感じながら、まるで遠足中かのように明るい声を出した。


「先生! チェコスロヴァキアはもうすぐ?」


≪はい。工程は順調です≫


 木々がざわめく音や、山道に転がる石を蹴ったときの乾いた音。それらはヨハのこれまでの人生にはなかったものだ。いや、あったのだが、ハリボテやVRで再現された偽物だった。ヨハが自由に外を歩いたのは、これが初めてなのだ。


 先生に導かれて辿り着いた場所は、採掘跡だった。


 放置されてから長い年月を積み重ねたらしく不気味な静謐せいひつを湛たたえているが、徒歩ルートが整備された道から外れるのはやむを得ない。リスクを抑えるために、今後もそうだろう。


 旧東ドイツ同盟圏だったチェコスロヴァキアは、十二年前に東西ドイツ内戦が終戦を迎えたときからアメリカ主導のNATO-R(North Atlantic Treaty Organization – Reinforcement/再編北大西洋条約機構)管理下に置かれている。研究所があったポーランドも同様だ。


 NATO-R管理地域内の国境警備は緩く移動は比較的自由だが、ヨーロッパ同盟圏――。すなわち、EDC(欧州共同防衛連合)管轄区域では話が一変する。EDC加盟国の国境監視は厳重で、巡回部隊も存在する。


 ルクセンブルクはEDC加盟国だ。NATO-R管理下を無事に出られたとして、そこからはさらに緊張度の高い警備網を潜り抜けて向かう必要がある。


 それって、楽しそうだな――。


 ヨハは胸の奥から湧き上がる高揚を感じた。


 採掘跡の入口には、朽ちた木製の看板が半ば剥がれかけてぶら下がっている。錆びたレールが草に埋もれ、小さなトロッコの残骸が覆いかぶさっている。ヨハはそれらを眺めて、にっと笑った。


「先生、ここって見つかりやすい?」


≪光学監視は一部視界を失っています。地形の陰影と廃材が有利に働きます。短時間、干渉を行います≫


 先生の声はヨハにしか聞こえない。ヨハが先生とコミュニケーションを取りたいときには、声に出して喋らないといけない。先生はヨハが頭の中で考えていることや気持ちまでは把握できないのだ。


 おかげで、先生と脳で繋がっていてもヨハのプライバシーは守られている。傍目には一人で喋っているように見えてしまうことは難点だが――。


≪視界遮蔽を確保しました。次の三分間は光学監視の有効度が低下します。地形に注意してください≫


 懐中電灯を準備して地下に突入し、道なりに進んで地上へ。監視塔の影を抜けると、視界が一気に開けた。向こう側に広がるのは薄く光る境界線のような森の帯だった。あれを越えればチェコスロヴァキアらしい。


≪質問をしてもよろしいでしょうか?≫


「ん? 何?」


≪あなたには行先の選択肢があります。希望を提示してください≫


「目的地はルクセンブルクだよ」


≪質問の表現を訂正します。今後、Tier1特殊作戦部隊および諜報員による追跡が行われます。彼らの目的はあなたの確保です。国家や組織は、あなたを確保することで国際的優位性を得ようとします。ご安心ください。現時点で殺害のリスクは低く、生きる資産として丁重に扱われる見込みです。移送先は選択可能です。特定の軍人または諜報員による保護を希望する場合は、出会えるよう優先設定します。対象の情報を教えてください≫


「ああ、そういうことか。目的を達成した後はどこかの勢力に保護してもらうつもりだけど、どこにするかはまだ決めていないよ」


≪リスク評価を実行すると、対象により被保護の安全性は変動します≫


「そうだろうね」


≪旅をしながら熟考する、という方針を採用しますか?≫


「うん。あ、一つだけ必須条件があった」


≪何でしょう?≫


「国でも組織でもいいけど、私のこと一生贅沢させてくれるところに保護されたい」


≪願望を記録しました。生涯の経済的保障の分析を実行しますか? 推奨順位を算出しますか? なお、推奨には時間とデータ使用が必要です≫


「まだいいかな」


≪承知しました。保留リストに追加します≫


「まずは私を、誰にも拘束されていない状態でルクセンブルクへ連れて行ってね」


 ヨハは靴先で、ぬかるみを小刻みに蹴った。


◆◆◆


 NATO-R欧州総司令部 地下第三戦略オペレーションルーム


 低い警報音が二度鳴り、イーサンの背後で重厚な防音ドアが閉まった。室内の照明は薄暗く、壁一面に広がるホログラフィックマップの中央には青い光点が浮かんでいる。



「イーサン・クラーク大尉。手短に伝える」


 胸に略綬が並ぶアメリカ軍の軍服を身にまとった、白髪の男性に名前を呼ばれた。スクリーンの前に立っている彼は、EUSC――NATO-R欧州総司令部――の副長官であるバレット少将だ。


「対象は女性。推定十八歳。ヨハという名前だが、作戦用コードネームは≪リリス≫と設定する。彼女はゲノム編集で生み出されたデザイナーベイビーの成長体であり、≪イージス・エウロパ(Aegis Europa)≫の研究に関与している可能性がある」


≪イージス・エウロパ≫――。対象との関連性がイメージできないその名称を耳にして、イーサンは驚きを隠せなかった。


≪イージス・エウロパ≫はNATO-Rの軍事監視ネットワーク(AI防衛網)であり、統制AIによるサイバー監視体制でもある。『アメリカがヨーロッパを守る』という名目で導入されているが、実際のところは旧東ドイツ同盟圏だったNATO-R管理下の国家を監視・統制する役割が大きい。


 重要な防衛システムでありながら、実はアメリカが開発したものが礎にあるわけではない。


 第二次大戦後に共産圏となった旧東ドイツは、情報制御・通信暗号研究が極めて進んでいた。軍用神経回線を世界で最初に試験運用していたともいわれている。再編される前のNATOが東西ドイツ内戦で勝利した際、東ドイツからこの技術を接収してアップデートを繰り返したのだ。


 つまり≪イージス・エウロパ≫は、アメリカがNATO-Rを通して旧東ドイツ同盟圏の国家を支配し、ヨーロッパに干渉するための武器でありつつ、旧東ドイツの≪亡霊システム≫でもあるのだ。


 NATO-R管理下にあるドイツ、ポーランド、チェコスロヴァキア、フィンランドなどの各国は、政府・軍・インフラの通信を全て≪イージス・エウロパ≫経由にするよう強制されている。


 少将の手が操作盤に触れた。壁面スクリーンに、一六歳くらいのアジア系の少女の映像が再生された。


「≪リリス≫の二年前の映像だ」


 今時のセンスの良いファッションに身を包んでいる少女が、少女らしい可愛らしい家具が置かれた部屋にいる。撮影者と会話しているらしい。カメラとの距離が近いことから親密な間柄であることがわかる。


『ねえ、トマシュ。本物のクリスマスマーケットってどんな感じ?』

『クリスマスマーケット?』

『ポーランドはカトリックの国だから、クリスマスシーズンは特別でしょう?』

『まあね。でも俺はあんまり好きじゃないんだ』

『どうして?』

『ワルシャワなんかは大混雑する。観光客もいっぱいで、牛や羊の群れの中に放り込まれた気分になる』

『観光客か。人混みなんて知らないから人生で一回くらいは経験してみたいけど』


 撮影者の姿は映っていないが、声質は若い男性。名前や会話の内容から推測するならポーランド人だろう。少将が彼について触れないことから、彼のことを気にする必要はないらしい。


 それにしても、どこにでもいる普通のティーンエイジャーの会話のようで、いささか拍子抜けした。


 ≪リリス≫は目鼻立ちの整った綺麗な女性だ。華やかな雰囲気をしているのもあり容姿が目を引くが、他に特別な点は見えない。


 画面が彼女から切り替わり、映像内の机上に置かれている金属ケースが淡く光った。


「これを覚えておけ。中身は次世代エネルギーセルだ。都市一つ分の基幹インフラを三日間維持できる出力を持つ」


 スクリーンに赤い線が走り、地球軌道上の衛星群が結ばれていく。その中心に≪US-AI Controlled Weapon System≫の文字列が青白く浮かぶ。


「このセルを用いて複数の条件を満たせば、あのAI兵器群の制御信号に割り込める可能性がある」


 イーサンの眉がわずかに動いた。


「そのセルを≪リリス≫が所持していて、干渉する可能性があるということでしょうか?」


「それは最悪のシナリオだが、可能性は否定できない。≪リリス≫が有害でも無害でも、アメリカ以外の手に渡してはならない」


 少将は一拍置き、ホログラムの色を切り替えた。地図上の青点が、NATO-R管理下の古都であるプラハの位置で点滅する。


「君のチーム≪デルタ・オメガ≫に命ずる。七十二時間以内に対象を確保。いかなる抵抗・干渉が発生した場合でも、≪リリス≫の殺害は禁止。生かしたまま回収すること。以上だ」


「≪リリス≫の移動理由は?」


「不明。また、目的地も不明だ」


「EDCがこの情報を握っている可能性はありますか?」


「ロンドンが介入した場合でも作戦を継続せよ」


 イーサンは目を見開いた。少将は、≪リリス≫を手に入れるためなら、敵対関係ではないEDCへの武力行使も認めるらしい。


 少将は机上の端末から小型のデータモジュールを取り出し、イーサンに渡した。手のひら大の黒いチップに刻まれた文字。作戦名≪ライラック・ヴェイル(LILAC VEIL)≫――。


「極秘作戦だ。報告は暗号層≪デルタ・コード7≫でのみ行え。成功すれば、君の部隊はアメリカ本国へ異動となり昇格する」


 イーサンは敬礼した。


 二十年も軍人をやっていれば当然ながら様々な任務を経験するが、≪ライラック・ヴェイル≫は――。イーサンが過去に経験したことがない異質さを漂わせていた。


 テロリストでもない十八歳の女性たった一人を相手に、ここまでの戦略資産を投入するのか。


 ≪リリス≫よ。君はいったい何を考えて逃亡したのか――。


 イーサンは手元の黒いファイルを開いた。重要機密文書に詳細が記されている。


×××

Aegis Europa Internal Document

Classification: TOP SECRET / EYES ONLY

Document ID: AE-INT/OP-LV-017

Codename: Operation LILAC VEIL

Subject: Acquisition of Subject “LILITH”


1. Executive Summary(要約)

This document provides operational directives and strategic justification for the live acquisition of Subject “LILITH” under directive Aegis Europa Command.

Subject LILITH has been identified as a latent bio-asset originating from the discontinued East German neural research program Projekt TRISOL(1987–1991).

Her containment is critical to prevent EDC interference and to ensure NATO-R dominance in post-continental infrastructure control.

本書は、≪イージス・エウロパ≫の命令に基づき、対象≪リリス≫を生存状態で確保するための作戦指令および戦略的理由を示すものである。

対象≪リリス≫は、旧東ドイツ神経研究計画≪プロジェクト・トリゾル≫(1987–1991)に由来する潜在的生体資産であり、EDCによる介入を防ぎ、NATO-Rが大陸インフラ掌握における優位性を維持する上で極めて重要である。


2. Subject Profile(対象プロファイル)

Codename: LILITH

Designation: AE-NK-18

Sex: Female

Age: Estimated 18

Status: Civilian carrier of embedded neuro-cryptographic data

Threat Level: HIGH (Potential EDC retrieval imminent)

Capture Priority: ALPHA — Secure alive under all circumstances

コードネーム:≪リリス≫

識別番号:AE-NK-18

性別:女性

年齢:推定十八歳

現状:神経暗号データを保持する民間人キャリア

脅威レベル:高(EDCによる奪取の危険性)

確保優先度:アルファ=あらゆる状況下で生存確保


3. Strategic Significance(戦略的重要性)

Subject LILITH carries a Neural Encryption Seed (NES), a biologically integrated cryptographic key granting access to dormant Aegis Europa grid nodes — remnants of the East German military command network.

The activation of NES within EDC territory could allow NATO-R to reassert control over continental data lines and override EDC systems.

Loss or destruction of the Subject will render this control irrecoverable.

≪リリス≫は生体内に統合された暗号鍵≪ニューラル・エンクリプション・シード≫を保持しており、旧東ドイツ軍指令網≪イージス・エウロパ≫の休眠ノードにアクセスすることが可能。

この鍵を用いてEDC領域内のインフラを再制御することが可能となる。対象の喪失または死亡は、これらの制御権を永久に失うことを意味する。


4. Operational Directives(作戦指令)

Objective: Capture Subject “LILITH” alive and extract to [REDACTED].

Restrictions: Use of lethal force is prohibited unless mission integrity is compromised.

Extraction Unit: Joint Task Force AE-DELTA / SIGINT Support

Command Authority: AE Central Node [REDACTED]

目標:対象≪リリス≫を生存状態で確保し、指定地点[削除済]へ搬出すること。

制限:任務維持が不可能な場合を除き、致死性武力行使を禁止。

搬出部隊:AEデルタ部隊およびSIGINT支援部隊の合同チーム。

司令権限:AE中央ノード[削除済]


5. Threat & Risk Assessment(リスク分析)

Intercepted transmissions confirm EDC reconnaissance near target perimeter.

Field assets report unidentified AI interference within Aegis Europa grid — suspected manipulation attempt by EDC’s autonomous system “Helix Protocol”.

Counter-AI defensive measures authorized.

傍受通信により、対象周辺でのEDC偵察活動を確認。

現地部隊は≪イージス・エウロパ≫グリッド内で未確認AI干渉を報告。EDC自律システム“ヘリックス・プロトコル”による介入の可能性あり。

対AI防御プロトコル発動を許可する。


6. Authorization(承認)

Issued under authority of Aegis Europa Command – Section IV

All involved units are to operate under Operation LILAC VEIL protocols until further notice.

≪イージス・エウロパ≫司令部第IV区画の権限により発令。

全関係部隊は次報まで、作戦コード≪ライラック・ヴェイル≫の規定に従うこと。

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