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ピンクの雲

【プロローグ】Offenbarung Yoha Nebel - オッフェンバールング・ヨハ・ネーベル -

  • 執筆者の写真: 灯甲妃利(Hiri Toukou)
    灯甲妃利(Hiri Toukou)
  • 10月10日
  • 読了時間: 7分
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概要やあらすじはこちらから

プロローグ


 ハアッ、ハアッ、ハアッ――。


 少年の喉の奥で、擦れた呼吸が壊れたエンジンのように鳴っていた。胸は上下に乱れ、空気を肺へ押し込むたび、耳の奥で血がざわめく気がした。


 タタタタッ――。


 遠くで自動小銃の断続的な破裂音がしている。


 ハアッ、ハアッ――。


 肺が焼けそうだ。喉が掻き切られるように痛い。それでも少年の足は止まらなかった。


 路地の闇に飛び込むと、心臓の鼓動が鼓膜を叩いた。


 ドクン、ドクン、ドクン――。

 ハアッ、ハアッ、ハアッ――。


 ようやく家が見えてきた。


 空爆は耐え抜いたものの、半壊した壁は黒く煤け、骨組みがむき出しになっている。近所の公園の曲がった木のように、その残骸は灰に赤を帯びた空へと突き出していた。


 少年は庭に駆け込んだ。足に当たったサッカーボールが転がり、弾むように飛んでいく。彼は玄関のドアを押し開け、声を張り上げた。


「母さん!」


 肺に負荷がかかり吐きそうになったが、堪えた。リビングには瓦礫が散乱している。彼の母親はその下敷きになっていた。


「……うう」


 呻き声を漏らしている。少年は慌てて瓦礫をどかして、母親を救出した。


「母さん、立てる?」


「……ごめんなさい。私は動けないわ。あなただけで逃げなさい」


「そんなこと、できるわけないだろ!」


 少年の母親は、か細い腕で彼を抱きしめた。


 彼らの日常は、一瞬で奪われた。


 ザクセン動乱――。そう名付けられた社会の急変から始まった東西ドイツ内戦は、開戦から一年を経て、東ドイツの小都市ヴィスマールにまで戦火を押し広げていた。


 東ドイツ同盟圏の支援を受ける東ドイツ政府軍と、NATO支援下の西ドイツ連合軍。双方は妥協点を見いだせず、都市も村も無慈悲に戦いの渦に巻き込まれた。理不尽な犠牲となるのは、この家族のような武器を持たない市民だった。


 そのとき、玄関先から重火器のものではない音が聞こえた。


 リビングに飛び込んできた人物を見て、少年の目は大きく見開かれた。


「父さん!」


 驚くのも当然だった。彼の父親は東ドイツ政府の研究機関に勤めていて、普段は研究所付近の宿舎で生活している。家に帰ってくるのは、ほとんど休暇のときだけなのだ。


「わたしの仲間が逃亡ルートを確保してくれた」


「父さん、母さんが……」


「マリア、わたしが肩を貸そう」


 父親は母親の腕を取り、自分の肩に回して立ち上がらせようとした。そこで少年と父親は、彼女の足が不自然な方向に曲がっていることに気付いた。


「私は無理よ。二人で逃げて」


「大丈夫だ。君一人くらいなら、わたしが運べる」


 突然、空を切るようなヒューという音がした。直後、爆風に呑まれた彼らの視界は灰と煙に包まれた。近くに爆弾が落ちたらしい。あちこちから火の手が上がり、家具が燃え盛っている。


「……うっ」


 少年は両親に抱きしめられ、いつの間にか二人の下に伏していた。


「母さん、父さんっ」


 呼びかけても、母親は微動だにしない。


「……息子よ」


 父親がかすかに動き、震える声で口を開いた。


「ここに行きなさい」


 手渡されたのは、メモ用紙だった。地図が描かれている。


「わたしの仲間が待っている。安全な場所まで連れて行ってくれる」


「何で……? まるで俺一人で行かなきゃいけないみたいじゃないか」


「……父親として、最後に伝えたい。楽しく、自由に、行きたい場所に行き、住みたい場所に住み、自分らしく生きろ」


 その言葉を最後に、父親は口を閉ざした。


「父さん……母さん……」


 揺さぶっても動かない二人の下で、少年は喉が震えるのを感じた。


「ウアアアアアア――!」


 全力の叫びは外で響くサイレンの音にかき消され、彼の視界を震わせた。


◆◆◆


西暦2027年 11月3日


 ワンピースを頭からすっぽりと被り、布地を肩に落とす。黒曜石のような艶を帯びた長い黒髪が、さらりと頬へ流れ落ちた。


 ≪彼女≫は指先で髪をかき上げ、手櫛で整えた。全身鏡の前に立ち、視線は真剣に自分へと注ぐ。大きめの二重の瞳は、わずかに光を反射している。小さく整った鼻筋と透き通るように白い肌が作る表情も振る舞いも、血は日本人のものでありながらドイツ人に育てられた環境の影響が刻まれている。


 乱れはないか、確かめる。


 十八歳の女性にとってはごくありふれた日常の儀式だろう。けれども、彼女が過ごしてきた場所は日常の外にある。


 彼女はグレーの中型スーツケースを引き寄せて、部屋の奥へ向かった。キャスターが転がる小さな音が、可愛らしい家具の並ぶ空間に響いた。


 彼女が前に立っても、ステンレス鋼製のドアは沈黙を守り続けている。


 おしゃれなラグマットが敷かれた温かみのある床は、このドアの手前で唐突に断ち切られている。そこから先は病院のように硬質なリノリウムが顔を出し、白すぎると感じるほど徹底的に磨き上げられている。


「先生――。解除」


 彼女が囁くと、ドアは低い機械音を立て、ゆっくりと横に滑った。


≪解除完了≫


 この場には彼女しかいないが、彼女のものではない、落ち着いた女性の声がした。


「先生。ルクセンブルクまで行くには、どのルートが一番安全?」


≪Tier 1特殊作戦部隊および諜報員による追跡を想定。現在の統計値から、成功率の最も高いルートを演算します≫


「お願い」


≪算出完了――。最初に向かうべきはプラハです≫


「プラハ……?」


≪旧東ドイツ同盟圏、チェコスロヴァキア共和国領内の古都。観光客に紛れやすく、諜報員も動きを制限されやすいです≫


「公共交通機関かタクシーは使える?」


≪理論上は可能。ただしポーランド国境を越えるまでは徒歩が最適解≫


「徒歩? 正気?」


≪あなたはアジア系の容姿を持つ若い女性。この地域では目立ちやすく、鉄道や空港で即座に特定されるリスクがあります。徒歩での移動は、最も不便で最も発見されにくい手段です≫


「面倒すぎる」


≪同意します。しかし、身体の持久力はまだ統計的に余裕がありますし、未踏の景色は心理的な緩衝材になります≫


「修学旅行みたいだね。修学旅行なんて経験したことないけど」


≪修学旅行に捕縛者は出ません。油断は禁物です≫


「そっか」


 過度な清潔さを保つ廊下の、飾り気のない白い壁が冷たく見えた。


 彼女はスーツケースを引いて進んだ。途中、蛍光灯の下に自動販売機とテーブル。紙カップは倒れ、中身のコーヒーはテーブルを伝ってポタポタと地面に垂れていた。


 その周辺に、二人倒れている。赤い模様の入った上着を羽織っているように見えるが、血が白衣に染み込んでいるだけのようだ。息はしていないだろう。遺体には目もくれず、キャスターが血を轢いて汚れてしまわないよう配慮しながら通り過ぎた。


「先生、ちょっと寄り道してもいい?」


≪時間的猶予は十分です≫


「了解」


 彼女は通路を外れ、実験機材保管庫へ向かった。ここに何があるか、棚の配置も中身も以前聞いて把握済みだ。普段は研究員ですら立ち入りが制限されているが、今はセキュリティがほとんど機能していない。


 『RESTRICTED AREA – Level 4 Security Clearance Required(制限区域・レベル4の許可が必要)』と書かれた重厚なドアを先生の操作で解除し、中へ足を踏み入れた。


 埃っぽく、ダンボールや機器やケーブルが乱雑に積まれている。彼女は奥の一角に視線を向け、小さな笑みを浮かべた。


 そこにある金庫を開けると、PS5ほどの大きさの金属ケースが横たわっていた。これを手早くスーツケースに詰め込むと、荷物が増えた分ずっしりとした重みが追加されてしまったが、やむを得ない。


「よし。行こうか、先生」


≪時間的猶予はまだ十分です≫


 この――研究所は、無駄に大きくて出口も遠い。


 彼女は出口を目指して、足を動かした。 


 時々、人間が死んでいる。照明が明るい通路も、電源が落ちてしまって薄暗い通路もある。いつか観た、病院を舞台にしたホラー映画を思い出した。


 ふいに、温かみのある光に照らされた。


 ここと外界を隔てていたドアは、全開になっていた。彼女の眼前に広がるのは、クルコノシェ山脈の稜線。灰色の空と大地が一つに溶け合っているかのようだった。


「先生。この山を抜けて行くの?」


≪はい。プラハ到着後に、ルクセンブルクに至るために最適な次の目的地を決定します≫


「靴も服も泥だらけになる気しかしない」


≪承知しています。過去の選好データを参照し、各隠れ家で新しい衣服が補給されるよう手配済みです≫


「へえ、気が利くじゃない。さすが先生!」


≪ただし、私には欠点があります。私は旧東ドイツの研究を基盤としたAIです。関連する通信網や暗号系は問題ありませんが、最新軍事通信への干渉は制限されます。さらに、完全なオフライン環境では私の力は大きく制限されます≫


「先生が活動しやすい旧東ドイツの通信網が残っているルートを選ばなきゃならないってことだよね」


≪その通りです。あなたの脳内インターフェースを通じてのみ、私は現実に干渉できます≫


 彼女はスーツケースのハンドルを握り直し、荒れた山道に目を向けた。


「おっけー。じゃあ始めようか。楽しい楽しい“Yoha‛s Journey(ヨハの旅)”を――」

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